やってる感の罪

plastic bag エッセイ
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「やってる感」は要らない

昼にビッグマックを食べた。3年ぶりかもしれない、とてもおいしくいただいた。そんなことはどうでもよいのだけれど一緒に飲んだドリンクにプラスチックのストローが刺さっていた。

最近、環境問題で目の敵にされているのが、そのプラスチックストロー。それを見て私は「さすがはマック!相変わらず世間から背を向けているのか!」となんとか思った。健康志向の日本で売り上げが振るわないからと、なんだか野菜ジュースやら野菜の入った新商品でごまかすマックはなんだかマックらしくないと勝手に感じていたから。

でもよくよく見ると、本体のカップは紙製で、プラスチックのストローが刺さっている。他社と比較して、スターバックスやコンビニはこぞって紙ストローにしている。あれが私は本当に嫌いなんだ、人より唾液量が多いのか(?)紙が濡れてストローの先がくしゃくしゃにつぶれて飲みづらいし、舌にガサガサした質感を感じるのも嫌だ。そのため、私は断固「紙ストロー反対派」なのである。

であるからして、どうやってか紙ストローがなくなることを夢見ていたのだけれど、マックの紙コップを見て思うのが、環境に配慮したいのであればスタバやコンビニのようにプラスチック製のカップのほうがどう考えてもプラスチック使用量は多い。ストローのプラスチック使用量なんてたかがしれている。それにカップの方を変えたほうがずっとマシだ。ビニールレジ袋を有料化したところで5円か10円くらいなら買う人も多いし、スーパーや100円均一店ではビニールレジ袋のまとめ買いがされている。だから何度も言うけれど、これらは環境配慮になっていない。

なぜストローが目の仇に

そもそも、どうしてこうも世の中がストローを目の仇にし始めたのかというと、亀さんの鼻にプラスチックストローが刺さっていて、その動画は世界中に配信され、「亀さんが環境破壊のストローのせいで大変なことになっているわ!」と大騒ぎして、世の中のエコ機運の高まりとともに、そのストローがターゲットにされた。世の中のストロー製作会社はこぞって紙ストローにするために品種改良を重ね、以前のプラスチックストローの金型は廃棄したのだろうか。それだって環境汚染につながる。他の生産物を止めないと意味がない。

環境担当大臣の小泉進次郎(環境問題って世の中でいま一二を争うほどの問題なのによりによってなんでこの人なんだ…)にストローのことについて質問をした記者がいたのだけれど答えは「環境への意識を高まるため」と答えた。これがやってる感の罪だ。目的は環境保護のはずなのに、これでは彼の仕事やってる感、評価と印象をよくするためで終わっている。なんなんだこれは。

これで思い出すのが、ゴミ箱の分別。缶とペットが別々になっているが、ゴミは結局同じところに行き着く。これも目的は「環境への意識を高まるため」なのだそうだ。ここまでくると、大きなわだかまりができてしまって、もうだめだ、逆に背きたくなっちゃう。

「できない」と言えない人たち

ふーむ、そう考えるうちにどんどんと腹が立ってきてしまって、その「やってる感」へのいらつきの火の粉を撒き散らしたくなってくる。最近だとコロナ禍での安倍シンゾー、小池のゆりぴー、それから大阪の吉村オジジやろか。彼らの「やってる感」にどれだけ胃もたれしてきたか。

「あれ、何だかうまくいかないぞ」という気持ちを跳ね返すために、これはどうしたらいいでしょうかと周りにお伺いを立てて議論できる人間はいないのだろうか。その「うまくいかない」ということにただコンプレックスを抱き、「できない」と言えずに、自分の能力のなさを認めずに「やってる感」を出す人たちのことが許せない。許せないのはそれが彼らの問題で終わるのならいいのだけれど、一応代表者らしいので私たちはそれを支持するものとして言いつけを守る必要が出てくる。だから腹を立ててもいいのだ。そして「やってる感ではなく、やれよ!」と言ってもいいのである。

これってどこかで感じたことがある違和感と一緒なのだけれども過去の自分だ。何か行動をやればやるほど優れているような、絶対成績を前に教師に気に入られようとする学生みたいだ、実は伴っていない。優秀な学生に見えるけれど全然模試の成績は伴っていない。成績がいいだけだ。やってる感というのは、やっていない。やっていないのに、やっているようなそぶりを見せるから気持ち悪い。できていないのに、できているから気持ち悪い。

生産至上主義の全体像

日本社会では、「できない」ことが認められないのである。

そういう人たちを見ていると「生産至上主義」の全体像らしきものが見えてくる気がしてくる。 日本は子供を産まない、結婚をしない、仕事をしない、学校に行かない者を異端として扱い、落ちこぼれた者には何を言ってもいい。認められない。そんな閉塞的な日本社会。

やってる感というのは矛盾、そのものであり、矛盾というのは日本をここまで消耗させた生産性至上主義であり、生産至上主義というのは男性至上主義であり、無理くりつなげているわけでなく、そのやってる感をやっている女というのは、もうだめで男性至上主義そのものなのである。そこから抜けきっていない。

もしもわからない、できないことがあるのならそうしたほうが社会は解放されてどうやったら目的を達成できるのか建設的な案を考えて進むことだってできる、開いた環境で議論だって行うことができるかもしれないのに。だからやってる感というのは本当に大きな罪だと思う。

やってる感をするくらいなら、ゆっくりおねんねしてもらっていたほうがマシだと思うほどに。

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