NHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」初回放送日: 2023年1月13日「植物のふるまいから人間を考える」のなかで高橋さんの長年の友人であるTとの話をしていてお正月のたびに思い出したいすてきなエピソードだったので書き起こしました。
書き起こし
正月三が日を少し過ぎて、友人のTと会いました。Tとは1年に1度会います。大体はお正月に。どこか食事のできる店で待ち合わせます。お互いに妻を連れて。Tと最初に出会ったのは大学2年の時。半世紀以上も前のことです。
Tは4年で卒業してある証券会社に入りました。けれどもそこは自分のいるべき場所ではないと考え退社。2年半の間1日10時間以上勉強して司法試験に合格。弁護士になりました。僕は8年在籍した大学を満期除籍。その頃の僕は親ともほかの友人とも関係を絶ち、ただ1人会っていたのがTでした。
30歳になり小説家になろうとしてある賞に応募しようとしました。あとは頭の中にあった作品を書くだけです。けれどもそのためには2ヶ月ほど仕事を休まないといけません。でも、お金がない。なのでTに頼みました。
「この作品を書いたら賞を取って作家になれると思うからお金を貸して。」するとTは「君の言うことなら信じるよ。」と言って2ヶ月分の生活費を貸してくれました。Tの貸してくれたお金で食いつなぎ小説を書き、その作品は受賞し僕は作家になったのです。もちろんお金は返しました。
実は2人とも何度も結婚しています。Tの婚姻届の証人はみんな僕で、僕の婚姻届の証人もいつもTです。婚姻届に署名するためにあった年もありました。Tは誰でも知っている事件の弁護士を何度もやっています。でも、僕は弁護士としてのTにはあまり興味がありません。Tも僕がどんなものを書いているかには興味がないみたいです。何かになる前のお互いを知っていて、そのことが一番大切だと思っているからこそなのかもしれません。
1年に1回会ってするのは世間話。特にめぼしい話題があるわけではありません。でも会うと、まるでつい昨日会ったばかりのように自然に話をします。少しも変わっていない、いやもちろんお互いにずいぶん歳を取ったけれどふいに目の前に半世紀も前の二十歳のTがいるような気がしてびっくりします。動作、声、表情。それがまるで変わっていないからでしょう。なんだか不思議です。
食べ終わり話終わると店を出ます。だいたいはTが車で最寄りの駅まで送ってくれます。「ありがとう、さようなら、また今度。」それで別れ。彼の車が去るのを見送ると新しい年がやってきたな、と思うのでした。
初回放送日: 2023年1月13日「植物のふるまいから人間を考える」
何者でもないときの友人というのは、何者でもなく会える着の身着のままの関係。自分にもいるそういう友達はずっと大切にしたいと改めて感じます。