母親の木の像

マザー・マザー02

向かい合う必要もないと頭を洗いながら思う。髪の絡まった排水口には泡が溜まり、流れなくなるのを見ながら胃もたれを感じる。戦わないことは逃げではなく、孤独であることは悪いことではなく、引きこもることは生活をしていないことにはならない。黒カビでびっしりの実家の風呂で怒号が聞こえ続け長風呂などしたことのなかったときに比べれば、髪の指通りや、ボディソープの泡立ちや匂いを感じてみたり、昨日食べたものこれから口にするもの、明日の予定、そんなつらさのない過去や未来を考えられることが「ふつう」なのだと思う日々。思わなくなったとき、「普通」になるのだろう。

シーザードレッシング

風呂は記憶の引き出しからなにかが溶け出してくる。脳が溶けて引き出しの奥に入れていたときは色形も臭いもなかったもの。それが当たり前のように記憶として蘇る。シーザーサラダ。白いクリーミーなドレッシングに粗挽きの黒胡椒が見える。レタスやトマトにかけて、上にクルトンやフライドオニオン、炒ったナッツなど歯ごたえと香ばしさのあるトッピングがあると尚良い。

中学の時に友人が何気なく休み時間に「お風呂に長く入って、風呂上がりにお母さんのつくるサラダにシーザードレッシングをかけて食べるのが最高に好き」と言っていて、わたしはその言葉にまとわりつかれてその時も未来にも苦しむこととなる。他愛もない言葉が私にはすべてが引っかかった。

長風呂、お母さん、シーザードレッシング。長風呂?お母さん?シーザードレッシング?

温かい、やさしい、おいしい、その感じられた形容される言葉すべてがわからなくて、新しくて、安心できて。わからないままにも、それはどんなものなのだろうと、祖母とスーパーで買い物をしたときにカゴに「食べてみたいの」とぶっきらぼうにキユーピーのシーザードレッシングを入れた。

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趣味は読書と映画鑑賞と自転車・散歩。いろいろな土地に住みついて文化や食べ物、言語を学ぶことが道楽。ブログはぼちぼち更新していきます。