あの子は貴族

東京は階層の違う人たちとは会えないようになっている。映画『あの子は貴族』のレビュー。

Netflixで『あの子は貴族』を観た。

感想

格式高くしきたりと作法と決められ切った家族階層の中で息の詰まる上流階級と、女なんだから料理くらいすべきだどうしたんだ粧し込んでと女であることと自由のなさに息の詰まる田舎の実家。

情報量が多くて、言動のディテールも細かい。特に印象深かったのは、華子が見る東京には工事現場は見えていないけれどみきが地元の友達とニケツするときに「工事やってるね」というセリフの対立。それから、華子が幸一郎と食事に来た際に、幸一郎がレストランのメニューを眺めながら料理を決めてあげる姿と、みきの前では汚い中華料理に面と向かって腰掛けてメニューをそのまま突き出す対立。そんな描写の一つ一つが、東京の松濤で暮らす代々のお金持ち、外部から来た地元出身の女の子の心理や育ちを表現していたように思う。

ーーー東京は階層の違う人たちとは会えないようになっている。

私たちは自分が違う家に生まれていれば、もっとお金持ちで、都会の家で、裕福で環境に恵まれた人生を送れていれば、毎日が幸せで悔やむこともなくと思う。それでも、作中の「どこに生まれても最高に幸せと思える日もあれば泣きたくなる日もある」という言葉は真意だった。映画を観た後、誰かになりたいわけではなく、自分であってよかったと思える映画だったと思う。

階層も確実にあって、平等な生き方なんてない。そんな現実を突きつけながらもどれかの役かに肩入れされているわけでもないゆえに、どの登場人物の人生も愛おしく感じたし、同時に自分の人生のことも愛おしく感じる必要があるんだと思えた。

以下はこの作品を絶賛していた岡田斗司夫コメントのざっくりとした書き起こし。

書き起こし

現代の日本階級。

ストーリーは主人公が東京のど真ん中、渋谷の松濤で整形外科医の父、お嬢様役が門脇麦。

27歳で正月の新年会。おばあさまの毎年のお食事会が帝国ホテルで開かれる。おじいさんが亡くなってマンションに引越し。年のはじめの一族の食事会のために毎年元旦に予約をする。

遅れるのが婚約者に振られてしまう。婚活をはじめる。

東京の上流階級の華子とKO大学の幼稚舎から上がってきたわけではなく実力で受験して入ってきた地方都市で成績のよかった見た目もいい女の子。

東京に来ると自分が持っていたエリート意識が全く通用しない。内部生と友達になってお茶するとアフタヌーンティーが5000円。悪意のないお茶会で違う世界を見せられた。

自分は東京にきたはずなのに、自分の住む東京と皆の暮らす東京が違う。

美紀ががんばって受験しても主人公の毎年新年会を開いている、華子の婚約者は親が何をやっているかわからないけれど親を自分の代で告げるかわからない。政治家になるしかないと、選択肢がないと思っている。

幸一郎は政治家になると望まれていて、太郎や一郎という選挙民が覚えやすい名前をつけられている。

この階級差がセリフで出てくるわけではなく、冒頭の華子が帝国ホテルに行く銀座の町のきらびやかな街やビルの前に道路工事をやっている風景が映り込んでいるけれど、それを見ていない。

東京にはきらびやかな世界と働いている庶民の二つの海藻があって、両方あるんだけれど華子は目に貼っていない。ほぼ映像で見せられる。

女性階級差を描いた映画は悪者をつくりやすいけれど悪者は出てこない。階級というものはそういうものであり仕方ないものであって、対立すると貧困の差をうつしてしまう。

相対的に見せていることで誰も憎まなくて済む。

脚本も演出も本当にすばらしい、キャスティングも完璧。

原作にはない映画オリジナルのキャラクターの使い方もすばらしい。

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地方出身女。趣味は読書と映画鑑賞と自転車・散歩。いろいろな土地に住みついて文化や食べ物、言語を学ぶことが道楽。ブログはぼちぼち更新していきます。