となりのイスラム 世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代

となりのイスラム

作家の佐藤優が著書の中で、

読書ノートは「本の抜き書き」と「それに対する自分のコメント」を書くこと。すると、ただ読んだだけでは「わかったつもり」でわかっていなかった内容がしっかり残り、しかるべきときに引き出し、アウトプットにつなげられる。(知の巨人・佐藤優はなぜ「手書きノート」にこだわるのか?

と書いていた。

今までブログで大した感想もなく書き抜きを引用していて、読書レビューもうまくかけないし、そんなことを記録に残していいのだろうかという一抹の不安がなくなった。形はどうであれ自分が読んできたものを何かしらの形でメモに取っておくのは大切なことと思える。

『となりのイスラム』

今回の本は『となりのイスラム』(ミシマ社)。

イスラムについては、よく耳にするのだけれど、まったくわかっていくて勉強不足を自覚していたので手に取った。斎藤美奈子が帯の書評に「 これまででもっともわかりやすく、実践的で、役に立つイスラムの入門書だと思う」と書いているのと同じ感想だった。

私はイスラム教徒ではないので、「イスラムとは何か」を語るにふさわしくありません。そのことはよく自覚しています。あくまで非イスラム教徒としてイスラム教徒がどういう人たちに見えるかという話としてお読みください。(P56)

という前提が置かれているのだけれど、長年研究してきたからこそここが違うと断定するわけではなく、どう見えるのかという距離の置き方が優しくていいなと思った。境を作らないというのがなによりも他者を理解する上では大切なことであると気づかせてくれる本だったように思う。

「イスラム」とは

 語源的にいえば、イスラムとは、唯一絶対の神、アッラーに従うことです。呼び方としては、イスラム教と言ってもイスラムと言ってもいいのですが、大事なことはイスラムというのは「イスラムする宗教」であるということ。

「唯一絶対の神、アッラーに従う」ということ。それが「イスラムする」ということです。「イスラムする人」、つまりイスラム教徒のことをアラビア語ではムスリムと言います。

英語でもMuslimです。細かいことを言うと、英語では区別をしませんが、アラビア語では男性がムスリム、女性がムスリマになります。(となりのイスラム<P56>)

イスラムに対する一部の誤解

 ところが、この「絶対の神、アッラーに従う」を欧米世界では「神に絶対的に服従する」から、イスラムは人間の主体性というのを認めない、理性というものを認めない宗教だろうと思い込みます。

これは欧米理解の誤解のひとつです。

「アッラーに従う」の別の解釈

 「唯一絶対の神、アッラーに従う」は、もうひとつ別の解釈もできます。それは、この世のことすべてを「唯一絶対の神、アッラー」に委ねることだ、という解釈です。

神様がすべてを引き受けるのだから、神様の指示に従いなさい、という論理になる。逆にいえば、神様に従うのだから、物事の結果は神様によるのです。

イスラムにおける「自分たちはすべて神様に従う」という意味は、これなのです。私たちイスラム教とでない人間からすると、物事の結果をすべて神様に「丸投げ」しているようにも見えます。

たとえば、試験に受かっても落ちても、商売がうまくいってもうまくいかなくても、神様にしたがっている(丸投げしている)のであれば自分に責任はない。「唯一絶対の神、アッラーに従う」かぎり、自分に責任が降りかかってこない、ということでもあるのです。

この神に属している限り自分に責任が降りかかってこない、というところが人口の4分の1にもイスラム教とがいる要因だと言えると思う。「この宗教とともに生きていれば楽になれる」(P58)と皆が感じているからだ。

著書にはこの考え方は丸投げと書いてあったけれども、私はそうは思わないし、イスラムでいること、イスラムをすることは羨ましいなあと感じた。

どんな顛末でも、神の背かなければ自分は幸せになれるのだという考えは、人間たちが人間とともに暮らしているためには必要なことだ。もしも、この考えがなくて、責任はすべて人間のせいだと言えばそれは争いになる。

他人を騙すようなことを決してしない、他人を見下さない、自分の家族を含めて、何が正しいことなのか、いつもそれを考えて行動する。(中略)そういうところにイスラムの本質を見ます。(P91)

これがイスラムの本質であるということも、共存して生きることを受け入れ、人間であることを宗教のもとにして受け止めていることが言動から理解できるように感じる。

3つの異なる宗教が共存する場所”アンタキア”

キリスト教がユダヤ教を嫌う理由はイエスの一派がやろうとした改革を気にくわずに、ユダヤ教徒たちがイエスを十字架にかけたと言われている。

興味深かったのが、トルコのアンタキアという場所。

ここは一神教の3教であるイスラム教、キリスト教、ユダヤ教の三つが存在しているそうだ。ここでは誰もが嫌い合わずにともに暮らしている。理由として言われていたのが以下の通り。

アンタキアでは、お互いに誰がどの宗教であるかを尋ねたりしません。尋ねると言うこと自体が、互いの間に「線を引いてしまう」ことなんです。お互いの宗教祭日、イスラム教にとってはラマダン明けの祝日や犠牲祭、キリスト教徒にとってはクリスマスや復活祭には、お互いに「おめでとう」と声をかけ合えばいいのです。(P82)

一番いけないことは、外から来た人間が勝手に線引きをして争わせることだという。これは人間世界のすべてにおいて言えることだと感じた。

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