アンナ・カリーナが死んだ

遠回しに言うこともなく、アンナ・カリーナが79歳で死んだ。

アンナ・カリーナは、1960年代に活躍したフランスの女優で、ジャン=リュック・ゴダールのメデューサであるとされ、一番目の妻である。

ヌーヴェルヴァーグ時代のゴダール作品の中では、「女と男のいる舗道」「女は女である」が好きだ。少し作品について振り返ろうと思う。

『女は女である』でアンナが演じたのは、ストリップダンサーのアンジェラで、一緒に暮らす恋人エミールが突然子どもが欲しいと言い出しドタバタとストーリーが展開していく。

 

この時に彼女が着ていた赤いカーディガンと赤のタイツのファッションが好きで、原色の赤いセーターを買ったのもいい思い出。

ちょっとオーバーサイズなのもすごくかわいかった。

アンナカリーナが亡くなって、ネット記事やSNSで見る機会が増えた 「女は女である」というタイトルは、トートロジーを効かせたいいタイトルだなと改めて感じる。

女はどうしたって女だし 何度だって同じようなことを繰り返す(ドタバタの、いつでもキュートでバカな生き物なんだ)

私が好きな映画のベストに選ぶ「女と男のいる舗道」では、最後は退廃していく売春婦ナナを演じた。

タバコを片手に下向き加減のマニッシュボブがとてもキュート。体を売る役とは言えど、意志の強い女性の表情と、薄手のコートを身にまとう軽やかな雰囲気に憧れたことを思い出す。

この作品は、すこし風変わり。規則性がない感じでストーリーが12エピソードに分断されていて、突然シーンが切れてたかと思うと、黒い背景に白地のタイトルクレジットとともに次の展開に進んでいく。

イメージとしてはちょうどジムジャームッシュ監督の『コーヒーアンドシガレッツ』のような感じだろうか。登場人物たちが代わる代わるクセのある個性あふれる会話を繰り広げ、11エピソード展開する、あの感じに似ている。

あれほど多くの登場人物は出ないが、この作品には観客がアンナの内面の苦しみを探るためのキーパーソンが登場する。(アンナは自分の素性をあまり口にしない)

それが11番目のエピソードで喫茶店にいるアンナと対話をする、哲学者ブリス・パラン。言葉の起源に関する、謎を思索する哲学者、本人役として出演している。

 

アメリカの批評家であるスーザン・ソンタグが『反解釈』(ちくま学芸文庫)の中で「女と男のいる舗道」について、ゴダール史上最も精巧につくられた作品だと絶賛している。

彼女も最も好きなエピソードとして、この二人の対話について書いていたので、引用させていただこう。

ふたりは言語の性質について討論する。ナナは人間はなぜ言葉がなければ生きていけないのかと訊く。パランは、話すことは考えることに等しく、考えることは話すことに、等しい、思考のない生はないのだ、と説明する。話すこと、話さないことが問題なのではなく、いかに上手に話すかが問題なのだ。上手に話すには、禁欲的な修養(禁欲精神)が、超脱性が必要である。たとえば、まっすぐに事実が得られることがない、ということを理解しなければならない。過ちは必要なのだ。

『反解釈』(ちくま学芸文庫,p 313「ゴダールの『女と男のいる舗道』

正直、禁欲精神や超脱性(デイタッチメント)なんてことはきちんと理解できていないのだけれど、ここで重要なのが、この対話によって「過ち」が必要であるとナナに諭すシーンであると思う。

何の脈略もなく続いているような、12のエピソードは実はラストのナナの退廃的な終わりに向かっており、観客の心の準備をさせていることが対話の内容からわかってくる。

売春婦である女の一生を描いたこの作品は、ある意味、自由と愛を求めた人間(つまりゴダール自身)を暗示し、からかっている作品のような気がしてくるのだ。知ったような口ぶりであるが、この作品の良さをより理解するにはもう少し年齢を重ねることが必要だと感じている。

アンナ・カリーナが死んだ、からはじまった記事は、結局彼女の作品への思いや自分の考えに収まってしまった。まあこれがきっと、遠く離れた会ったこともない女優と観客の一番正しい距離感であり、出来る限りの追悼なのだろう。

−−−−−−妻の肖像を描く芸術家は妻を殺す。−−−−−−ナナは死ななければならない。(ジャン=リュック・ゴダール)

『反解釈』(ちくま学芸文庫,p 330「ゴダールの『女と男のいる舗道』

 

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