アダムとイブ

男の肋骨から女が創られたという話

フェミニズムの歴史は、男性によって形作られた世界で完全な人間性を体験しようと努力している女性の歴史であるのだけれども、どうしても男性の優位性を示す「男性によって形作られた」社会や歴史という表現を見ると、旧約聖書の創世記第2章にある女性であるイブが男性アダムのあばら骨から造られたという記述を連想してしまう。

「アダムのあばら骨の1つを取ってイヴを生んだという考えは、シュメールの出産の女神ニンーティ(あばら骨の女神)から出たものである。」(『神話・伝承事典』 バーバラ・ウォーカー/著 大修館書店 1988年)

これはもちろん現実世界を前提として解釈すべき説話であり事実とは言えない。文字通りに解釈すれば、骨から人間が生まれるわけはなかろうという答えにしかならないわけで、「女が男の肋骨ってどういうことよ!」という声だって挙がるかもしれない。

ちょうどこの説話で思い出す映画がある。1987年にアメリカで製作され、アカデミー賞を受賞した『月の輝く夜に』だ。

1人の未亡人と、彼女に求愛する2人の兄弟を描いたラブ・コメディで、若かりし頃の胸毛がわっしわし生えたニコラス・ケイジがセクシーで個人的にはとても好きな作品。作中に(うろ覚えで申し訳ないのだけれど)「何故、男は女を追うの?」「それは、聖書にある。アダムの肋骨でイヴを作った。男は自分の骨を捜している。胸にぽっかり穴が空いている。女性はそれを埋めてくれる。男は、女がいないと完璧な人間になれない。でも確信はないですけど。」というセリフ。

創世記のアダムとイブについて言えば、もともと一つの体から男女は造られたものであり、一体となる男女の結びつきを示している。

なぜ肋骨なのか?という疑問については、説話の起源となるシュメールの神の話から来ているという

「アダムの肋骨からイヴを造ったという考えは、母親の肋骨から子の身体を造るというシュメールの太女神の話に由来するものである。シュメールの太女神は「肋骨の女神」であると同時に、「生命の女神」でもあった。」(『神話・伝承事典』 バーバラ・ウォーカー/著 大修館書店 1988年
p6)

アダムのあばら骨の1つを取ってイヴを生んだという考えは、シュメールの出産の女神ニンーティ(あばら骨の女神)から出たものであることがわかる。

ちなみに、アダムとは

この言葉は同時に「人間」(アーダーム)という意味も持つ、かつては個人の名前ではなく全体を表す一般的な名詞として使われていた。(Wikipedia『アダム』参照

「人間」という意味の一般名詞『アダム』から、「最初の女」が造られて、アダムは「最初の男」の名前になる。こうなると、男性が先に生まれ女性が後で生まれたという話になると、世の中は男に形作られた世界で、女性はその後に生まれたなんて話に通じてくるものがある。

現代の日本社会では女性たちは「生きづらい」と口々に言う。かくいう私も男性社会には溶け込めないし、どうしてそのような状態になっているのか「わからない」仕組みだけがいっそう複雑かしていて、もはや何がなんだかわからない事態にフェミニストを名乗りたいわけではないのに、女のいまある状態を考え、まとめたりしている。(この状態がときに自分でもよく「わからない」と思うのだが。もしかするともう私はシステムに組み込まれているのかもしれない)橋本治がきっぱりと社会は「男のもの」だと言い切っている。一部を抜粋してしまっているので、これに腹を立てる人もいるかもしれないが、きちんとそれは理論付けてあるので、興味があれば全編読んでいただきたい。下記は一部抜粋。

男の周りにある外部システムが、それに同調した男にはメリットを与えるような仕組みになっているからだ。会社人間という日本的なものが生まれてしまったのは、戦後の日本で「会社」というものが、それに従う男に最も分かりやすいメリットを与えたからだろう。別の言い方をすれば、世の中は男に都合のいいように出来ていて、それは世の中を構成する論理が「男のもの」だからだ。それで女達は、あれこれと文句を言うし、それがめんどくさくなった女は「男の論理」を無視して勝手に生きて行く。(P 92『父権制の崩壊あるいは指導者はもう来ない(朝日新書)橋本治』)

男と女はどちらが優れているかという話自体が、おかしな話なのだけれど、二項対立が好きな日本人にとってはわかりやすいワード「男」「女」があれば、優劣を付けたがる。サルトルの思想的盟友であったシモーヌ・ド・ボーヴォワールは「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という社会構築主義を語る上で言われており、つまり「女性性」は存在しないことを示している。生得的な性意識は存在しないというのは、フェミニズムと基本的な礎となっている。

女性という社会的存在の構築が「男性」によって行われたというのは、通説というか社会的慣行になっているわけだけれど、内田樹も『私家版・ユダヤ文化論』のP50でも話すように「そもそも社会の起源において父権制的な社会慣行を作り出したのは誰なのか?」という問いが誰も答えられない。この問いこそが、橋本治の言う「男の理論はあって女の理論はない」という現実なのだろう。

<参照>

レファレンス共同データベース(所沢市立所沢図書館 (2310110))

『神話・伝承事典』 バーバラ・ウォーカー/著 大修館書店 1988年

『旧約聖書人名事典』 ジョアン・コメイ/著 東洋書林 1996年

『創世記を読む』 和田幹男/著 筑摩書房 1990年

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹/著 文藝春秋

『父権制の崩壊あるいは指導者はもう来ない』橋本治/著 朝日新書

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