岡檀(おか・まゆみ)さんの『生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)』(講談社)を読んだ。
『令和初公表!47都道府県「幸福度」ランキング』という、毎年恒例となっている幸せのランクづけに嫌気がさしているこの頃。記事閲覧ランキングでも一位であり、大勢の人がこの他人や世間の幸せの順位というものにやたらと興味があるらしい。
こだわりを捨てるーー”幸せ”でなくてもいい。というタイトルの章を読んで、感じることがあったので書き記しておく。
P 180〜P 182 以下、引用。
海部町とその両隣に接する街を比較した場合、海部町の住民の幸福度は三町の中でもっとも低い。つまり、「幸せ」と感じている人の比率がもっとも小さい。はじめてこの結果を目にしたとき、私は非常に意外な気がした。
ーー(略)ーー
住民幸福度に関するそれまでの私の漠然とした考えは、自殺の少ない地域では幸せな人がより多く、自殺の多い地域では不幸な人が多いーー端的に言ってしまえばこういうことだった。
ーー(略)ーー
分析結果を見ると、「幸せ」と感じている人の比率は海部町が三町の中でもっとも低い一方で、「幸せでも不幸せでもない」と感じている人の比率はもっとも高い。また「不幸せ」と感じている人の比率は三町中もっとも低かった。
ーー(略)ーー
「不幸せ」という状況に陥りたくない人は多いだろうが、では「幸せ」ならよいのかというと、考えようによってはさほど結構な状況でもないのかもしれない。「幸せでも不幸せでもない」という状況に止まっていれば、少なくとも幸せな状態から転落する不幸におびえることもない。
幸福度というのは、客観的な指標ではなく、その人の主観的な観点であって、同時に相対的評価である。人は普通、自分が幸せかどうかを判断するときになんらかの「ものさし」を使っている。幸せというものは、自分のものさしが満たされたときにはじめて感じる、漠然とした基準が人それぞれに設けてあり、これに当てはまっているのかを自己判断している。
世間や他者と比較して自分を測るという行為であり、比較対照する世間や他者がいないと幸せを感じることができないという状況が通常になっている。
世間や他者で上り下がりする「幸せ」というものが人々の幸せになっているのだとしたら幸せなんて要らないのではないだろうか。「幸せでも不幸せでもない」状態という、判断基準が動くこともなく、自分軸で動くことができる状況を保っていることが大切だと思う。